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「君が代」は遊女のラブソングか?
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池田 一貴
日本共産党(大阪府委員会)のウェブサイトに
≪「君が代」のルーツが堺
の寺に!? 顕本寺の僧創作の隆達節≫という記事がある。
http://www.jcp-osaka.jp/2007/05/post_237.html
要約すれば、こういう内容である。
≪「君が代」は明治2年ごろ、明治天皇を迎える儀式用にと、薩摩藩砲
兵隊長だった大山巌が、薩摩琵琶歌の一節から歌詞を選び、海軍軍楽隊
教師の英国人フェントンに作曲を依頼したもの、というのが通説だ。
ところが、これに疑問を抱いた経済学者の工藤晃氏(81)が調べてみると、
次のようなことがわかった。
堺にある日蓮宗の顕本寺に高三隆達(たかさぶ りゅうたつ、1527-1611)
という美声の僧がいて、「隆達節」という小歌(小唄より前の時代の歌)
を多数作った。それが江戸時代初期に大流行し、遊廓でもさかんに歌わ
れた。
薩摩藩士は財力があったため遊廓によく出入りしていたというから、酒
の席で遊女から隆達節を聞いて覚えたに違いない。実際、薩摩出身者が
明治・大正には隆達節を広めたという。
一方、米国のボストン美術館には隆達直筆の歌が書かれた屏風があり、
そのコピーが現在、顕本寺にある。これは1602年、隆達75歳の時に作成
された屏風で、そこには「君が代」の歌詞をはじめ数首のラブソングが
書かれている。だから「君が代」は隆達節で歌われたラブソングの一つ
だったのだ。
薩摩藩士が色里で隆達節の「君が代」を覚え、それをフェントンに作曲
依頼したことが、「君が代」のルーツではないか。
工藤氏は言う。「君が代」は「いつまでもお元気でね」という愛の歌だ
った。それを天皇制の永続を願う国歌にするのは甚だしいすり替えだ。
元の隆達節に戻すべきだ。また、遊里の酒席で歌われた歌を、学校で子
供らに歌わせるのはいかがなものか。強制するなどとんでもない、と。≫要するに、共産党は「君が代」を否定する新しい材料を見つけた、とい
うことだろう。さすが共産党である。1922年の創立以来、コミンテルン
の指令に基づき、日本の国家と天皇制を、何がなんでも蹴落とし、汚物
まみれに貶そうとしてきたその執念たるや、かくまで根深いのかと、感
に堪えない。
戦前、側室を置かない生活方針を貫かれた昭和天皇を「手当たり次第に
女とヤリすぎて梅毒にかかっている」とデマ宣伝した共産党。そして戦
後、国民の苦労を思い一汁二菜の質素な食卓で闇屋よりも貧しい食生活
をしておられた昭和天皇を「朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民、飢えて
死ね」と揶揄し、血のメーデー事件を起こして国民をあおった共産党。
その体質と発想は、今も変わっていないようである。
薩摩藩士が上方で遊女と酒を飲みながら覚えた隆達節の「君が代」を、
明治の軍人・大山巌が、ふざけたことに国歌に変えてしまった、という
憶測は、いかにも共産党の卑しい心根をあらわしている。
共産党のこの“独創的なスクープ”は、はっきり言って「珍説」である。
隆達節と「君が代」の“秘密のつながり”を研究している
マルクス主義
経済学者で共産党幹部で元衆議院議員だった工藤晃氏(81)の、この独創
的なトンデモ説を、共産党は「君が代」反対運動に利用したいらしい。
大山巌が「君が代」の元になった歌詞を採ったのは薩摩琵琶歌の「蓬莱
山」からであったというのが定説だが、それをくつがえす論拠はこの珍
説にはない。
ただ単に、堺の顕本寺の僧・高三隆達が創作した「隆達節」の中に「君
が代」の歌詞があったというだけの話だ。それと大山巌との関係は証明
されていない。これは単なる憶説である。
だいたい薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のほうが「隆達節」より古いし、それ
を作ったのが、戦国大名の島津忠良(1493~1568)であったことは間違い
のない事実である。高三隆達(1527~1611)より1世代30年以上も前の人
物なのだ。
「島津家中興の祖」島津忠良は息子の貴久とともに島津宗家の家督争い
の内戦を勝ち抜いた武人であると同時に、名にし負う文人でもあった。
忠良が作詞した「いろは歌」(いにしへの道を聞きても唱へてもわが行
ひにせずば甲斐なし云々)は薩摩藩士の団結を詠ったもので、これを子
弟の教育に使うことが、その後の薩摩藩の伝統となった。
もう一つ。祝言・戦勝その他の慶賀すべき祝いの席で歌われる薩摩琵琶
歌「蓬莱山」も、島津忠良が作詞したものだ。爾来、薩摩藩では、めで
たい席で必ず歌われる賀歌となった。
忠良は当時、琵琶の名手で盲僧だった淵脇了公を招き、自作の多くの歌
詞に曲を付けさせたが、勇壮な歌詞が多かったため、琵琶も力強い曲が
演奏できるように改良工夫され、薩摩琵琶という新しい楽器が生まれた。
「蓬莱山」は薩摩琵琶歌の初期から歌い継がれた曲の一つである。
「蓬莱山」の歌詞は次のようなもので、賀詞をちりばめた歌である。
目出度やな 君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に 不老門を立ち出
でて 四方の景色を眺むるに 峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊
ぶ ★君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで
命長らへて 雨塊を破らず 風枝を鳴らさじと云へば又 尭舜の御代も
斯くやあらん 斯程治まる御代なれば 千草万木花咲き実り 五穀成熟
して上には 金殿楼閣甍を並べ 下には民の竈を厚うし 仁義正しき御
代の春 蓬莱山とは是とかや 君が代の 千歳の松も常盤色 変らぬ御
代のためしには 天長地久と 国も豊かに治りて 弓は袋に剣は箱に蔵
め置く 諌鼓苔深うし 鳥も中々驚くやうぞなかりける★印を付けた行をご覧いただきたい。ここに「君が代」が含まれている。
この歌が作られたのは、1536~37年に、島津忠良・貴久の一族が、入来
院(いりきいん)重聰・重朝一族の協力を得て、伊集院一族を攻め落とし
てから数年後のことであった。(作詞の正確な年次は未詳)
この戦勝祝いの席で、入来院重聰は、入来院の先祖が鎌倉時代(当時は
相模の御家人だった)から代々受け継いできた入来神楽の十二人剣舞を、
舞方に命じて、初めて島津忠良の御前で披露した。島津忠良はこの神楽
舞をいたく気に入って触発され、のちに「春日野」「武蔵野」「蓬莱山」
など数多くの歌を作詞したのである。
とりわけ、めでたい「蓬莱山」は薩摩の武家屋敷では慶賀の席に付き物
となって歌われ、それが伝統となり、江戸時代から明治に至った。
薩摩藩の郷舎は、子弟教育の中心で、文武両道にわたって豪快で質実剛
健な武士を育てたことで有名である。幕末明治に活躍した著名な薩摩藩
士らはここで学び、育った。
小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、松方正義、川路利良、山本権兵衛、
伊東祐亨、東郷平八郎、
★大山巌、伊集院五郎、中村祐庸(初代海軍軍
楽隊長)、四元義豊(初代陸軍軍楽隊長)など、みな郷舎育ちである。も
ちろん彼らは「いろは歌」も、めでたい席での「蓬莱山」も習い覚えて
いた。
大山巌と薩摩琵琶歌「蓬莱山」(その一部としての「君が代」)とのつな
がりは、このように明瞭である。
だいたい、彼ら尊皇の志士が、天皇に捧げる歌に、遊廓の遊びで覚えた
ラブソングをわざわざ選ぶだろうか。そういう発想自体が共産党的であ
ろう。天皇や国歌を、どうしても薄汚れたイメージに変えたいという不
純な発想が透けて見える。「天皇は梅毒」「朕はたらふく食ってるぞ」
と同じ発想である。
(ちなみに、英国のベーデン・パウエル卿が鹿児島を訪れて郷舎教育を
見学・習得し、英国に帰国後、郷舎教育のノウハウを活かしてボーイス
カウト制度を創設したことはよく知られている)
薩摩藩士も遊廓遊びぐらいはしたであろう。しかし、それは参勤交代で
独身生活を余儀なくされた多くの藩の武士が経験したことだった。
マルクス主義経済学者の工藤晃氏は江戸時代の草紙文学など読まないの
だろうが、そこには田舎武士を嘲笑する遊女らの話がいくつもある。中
には吉原で浮き名を流した仙台伊達藩の殿様もいる。殿様は羨望された
ようだが。
ことさらに薩摩藩士だけが遊女と関係があったような書き方は、自説を
強引に補強しようとするもので、恣意的である。
工藤トンデモ説は、国歌が作られた当時の歌詞全体にも考慮を払ってい
ない。明治当初の「君が代」には1番と2番があって、歌詞ももっと長
いものだった。
(1番) 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすま
で 動きなく 常磐堅磐(ときわかきわ)に 限りもあらじ
(2番) 君が代は 千尋(ちひろ)の底の さざれ石の鵜のいる磯と 現は
るるまで 限りなき 御世の栄えを 祝(ほ)ぎたてまつる
この歌詞の発想は、どう見てもラブソングではなく、蓬莱山であろう。
古今和歌集に「わが君は…」として収録された詠み人知らずの和歌は、
それ以前から民間に普及していた民謡(俗謡)であったと思われるが、1
世紀後の和漢朗詠集ではそれが「君が代は…」と形を変え、やがて中世・
近世を通じて、日本各地で寿ぎの歌として歌われた。薩摩琵琶歌「蓬莱
山」の中に取り込まれたのも、その一つの形であろう。
明治になって作られた「君が代」は、直接には薩摩琵琶歌「蓬莱山」か
ら採られたものだが、国歌としての体裁をととのえるために、詞が追加
された。しかし結局、のちに残ったのは、「君が代は…」の三十一文字
(正確には字余りで32文字)だけだった。この歌が、いかに日本人に愛さ
れていたかを証して余りあろう。
薩摩琵琶歌「蓬莱山」と「隆達節」について言えば、作者の生没年から
見て、蓬莱山が隆達節に影響を与えた可能性はあっても、その逆はあり
えない。天皇制と「君が代」を憎みつづける共産党と日教組には気の毒ながら、
「君が代」は隆達節よりずっと以前から、日本人に親しまれた歌だった
のである。